熊谷賞 |
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ごあいさつ |
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熊谷恭晴先生 |
『熊谷賞』は洋服業界で、洋服造りに情熱を持って取りくみ、 技術に優れたる技量と識見を兼ね備えた人を表彰するものです。熊谷恭靖先生の技術の公開と後進指導者の育成並びにその道を通して人間形成とする理念を継承し、服装文化の向上に貢献したことが認められました。 年に一度、日本国内で2名が選出されます。 |
「熊谷賞」は、1986年(昭和六一年)に設立されました。それは、故熊谷恭晴先生が、常に実務から得たものを理論的にまとめ、洋服製図並びに裁縫のシステム化によって指導面の確立を図ると云う偉業を達成されました。こうした考え方を、次の世代の方々が受け継いでくれることが、洋服業界の発展に繋がるものと確信して「熊谷賞」を設立し、推薦委員会を発足した次第です。 此の「熊谷賞」は推薦状申込書に基づいた選考方法ではなく、広い分野より推薦し、平素の指導的活動、技術的見識と人柄、現在までの実績、今後の活躍への期待性など総合的に審議し、表彰させて頂くものです。 ◇ 大正八年春、小学校を卒業と同時に郷里の鳥取県を後に、船場の津田洋服店に入り、既に亡き馬場久治氏に師事したのですが、先輩の方々は、ご存知の通り誠に厳しい修業で、朝は七時から夜は十二時迄、アイロン用の炭切りに始まる雑用の合間を盗むようにして、先輩の仕事振りを唯見よう見真似で覚えていったものです。当時、裁断技術は名人芸とされ、参考にする著書もなく、見よう見真似以外には容易に伝えられなかったものです せっかくの技術が、その人一代限りとなるのが、いかにも残念に思い、誰にでも応用出来る裁断理論の確立を志した。とは云え、それこそ文字通りの独学で、わずかに英米の技術書を集めたものの、文章を理解すべもなく、製図その他に記された数字の拾い読みをして実際にあてはめると云った、いねば手探りで学び始めた訳です。 戦後三十四年にようやく刊行した独言が、「紳士服技術集成」でした。 技術というものは、単に名人一人のものであってはならない。伝えることのない技術、それは唯名人芸に過ぎないでしょう。会得した技術を更に誰もが、それを覚え応用できる技術として広く公開し、普及してこそ業界のため、社会のために意義があるのではないか、それが私の徒弟時代からの念願であって、今日に至るもいまだその夢を抱き続けています。 さいわい二千名に余る門下生たちが、この精神を理解してくれて、全国に根を張り、技を拡げて生きているのを見ると感慨無量のものがあり、今更乍ら身の幸せに感謝の念も新たにひたすら感激する次第です。 ◇労働省職業訓練局官報誌『職業訓練』掲載された「造形に魅せられて」と題する熊谷先生の文章を抜粋し、趣旨の一端とします。 (文責:関根璋治) |
受賞記念プレート |
第一回 | 近藤 正巳 | 梶岡 三省 | 第十三回 | 村山 勝太郎 | 酒井 繁雄 | |
原 滋 | 山田 鉄男 | 第十四回 | 久保 弘 | 安藤 明治 | ||
第二回 | 本原 新三郎 | 粕谷 幸男 | 第十五回 | 條 良光 | 岡本 富一 | |
第三回 | 西島 正明 | 平岩 武雄 | 第十六回 | 片山 誠温 | 西尾 弘毅 | |
第四回 | 金森 清伸 | 小木 威正 | 第十七回 | 吉田 育 | 青木 十三 | |
第五回 | 佐藤 五郎 | 細田 三郎 | 第十八回 | 只木 角太郎 | 大脇 正義 | |
第六回 | 真鍋 恵勇 | 杉山 等 | 第十九回 | 関根 璋治 | 松田 茂仲 | |
第七回 | 今津 辰男 | 神谷 一夫 | 第二十回 | 坂本 裕敏 | 松岡 義和 | |
第八回 | 中井 弘 | 吉田 実 | 第二十一回 | 上村 欽視 | 大路 信一 | |
第九回 | 小川 光夫 | 佐藤 繁 | 第二十二回 | 永友 隆 | 池本 陞 | |
第十回 | 青木 勝 | 繁田 勇 | 第二十三回 | 木村 仁 | 鈴木 誠二 | |
第十一回 | 横山 忠男 | 竹内 幸男 | 第二十四回 | 高松 忠利 | 河野 敏郎 | |
第十二回 | 松尾 芳樹 | 佐伯 博史 | 第二十五回 | 平岩 一郎 | 杉山 一郎 |
熊谷賞管理委員会 事務局
〒538-0044 大阪市鶴見区放出東2−3−11 南部 克夫 方
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2010.1.10改訂